古いイーゼルを引っ張り出して来た彼女は、はにかんで僕の前に座った。
数分前から動くことを禁じられた僕は、僅かに頬の筋肉を緩ませた微笑みで笑顔を造りそれに応えた。
何も喋らずに筆を進ませる。
彼女が絵を描くときはいつもそうだ。
僕が何を話しかけても返ってこないから、その内に話しかけるのを辞めた。
正面にはいつも僕が真っ直ぐに座る。
いつも顔はずっと真っ直ぐに向いたままだ。
時折疲れて上を見たり下を見たりすると、無表情な彼女が少しだけ不機嫌になるのが分かっているからだ
絵を描いている間、僕はいつも明後日の方向を見てどうにもならない考えを何度も巡らせている。
戦争のこと、僕自身のこと、ここ一週間の食事のこと
思い出して考えることが山ほどあったので、別に苦痛ではなかった。
それに何よりも、僕が虚ろな目をしているときの彼女を筆の進みは滑らかで、楽しげだったから。
そんな暗黙のルールができて、こうして今日もいつも通りに絵を描く関係が続いている。
彼女が立ち上がったら絵の完成。
ただ彼女はそれを一度も僕に見せたことはなかった。
無論僕としても、毎日鏡で嫌と言う程見ている僕自身の絵を今更に見るつもりはなかったから、これといった不満はなかった。
だから今日もただ、いつも通りに彼女が立ち上がるのを待つだけだった。
しかし今日は随分と長い。
我に返って目線を落とすと彼女の足が消えかかっていた。
あっと声を上げようとしたが、動くこともできず、声を出すことも出来なかった。
目線だけで追いかけて彼女を見る。
何時もと変わらぬ調子で無表情に筆を進める。
やがて足だけを見えなくしていた白い影は彼女をゆっくりと隠していき、顔と筆を持った左手を残して全てを消してしまった。
「瞳を。」
そう言い残して彼女は消え、持ち主を失った筆が地面にカラリと音を立てて鳴いた。
残された僕は静かに立ち上がり、イーゼルの前に座り彼女が残した絵を見た。
そこには、キャンバス一杯に描かれた彼女自身がいた。