オゾンのダンス

最近はポップに生きるようにしている。
ポップをどう言語化するといいのか考えたところ、さしずめ「軽妙な喜劇」辺りが妥当だと思った。


大学時代は演劇サークルに所属していた。
別に強い興味があったわけではないし、終わってから思い返すと演劇自体に費やした時間は無駄だったと思っている。

一方、其処で出会った大部分の友人達には感謝している。この出会いがあっただけで上述の無駄を全て覆すほどの価値を感じている。
同時に、今になって思うのは、台本や舞台、裏方(バックステージ)という考え方や世界に触れられたのは、本当にいい機会だったと感じている。


舞台上では、多少のイレギュラーがあれど、全てが予定調和の前提で進む。
千秋楽の舞台で多少のサプライズがあっても、観客に悟られずに進められるのは、明確な着地点が見えているからだ。
観客に悟られたら終わりだ。魅入らせている間は操作しやすい。
言い換えれば、「何か起こっても想定した着地点に持っていく」という覚悟ができているかどうか ということになる。

でも人生はそううまくいくわけがない。と考える人が多い。
事実、かつての私もそうだった。
でも、うまくいくとは何のことなのか。
例えば、「悲劇を見せたいのに幸運に見舞われて観客が笑う」というのは、自分は幸運なのにうまくいかなかったということになるのか。
という禅問答が始まらないように結論を言っておくと、「判断は自分に都合が良いかどうかだけ」だ。

じゃあ
自己都合で成否判定ができるなら、自己催眠することで常に成功扱いにしてしまうと楽だよね。
想定した着地点に無理矢理持っていく、デウス・エクス・マキナを設定するようなイメージが近いか。

結果として私は、
『自身は舞台に立っていて、起こることは全部台本通りだから、自分が喜劇と判断していればそれでいいから、笑ってればいい』
ということで落ち着いた。これが冒頭で話した『ポップ』ということになる。

何より、傍目から見て異常者と見做されるのは意外と利益しかない。
例えば、悲劇の被害者になった人がいて、でもその人が底抜けに明るいと、「無理をしているのではないか」と見え、結果として同情を集めたり、原因となる敵を憎むという攻撃心を育成するきっかけになったりする。
そして、逆に悲劇の原因の一端となった人間に対しては、罪悪感・困惑・恐怖等の意識を一気に与えられる。
ポップに振る舞うだけで勝手に自滅(同情と群衆心理があるかもしれないが)していくのを同時に見ていられる。いいことずくめだ。

要するに最悪の状態を常に織り込んで、笑顔を絶やさずやり過ごす覚悟を持つ といったところか。

もちろん、手放しでこんなことができるわけではない。
白鳥が水面でバタ足しているのと似たように、美しい舞台の裏側は到底見せられないほど泥臭いように。相応の準備や苦労がそこには隠れている。
でも見せなければ存在しないのと同じ。隠し通すという覚悟が必要になる。

悲しい事があった時に悲しい素振りをするなんてルールはない。
観ている人が笑っているなら、演じている方はもっと面白いはず。

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