rely

定期的に行っている気がする。

依存 に対する認識、解釈

依存を嫌悪する、忌避する人が多いのは
恐らく、この言葉から想像されるものが
自分が決してしたくない行動であるから
或いは、既にそれを経験して辛酸を舐めたことがあるから
或いは最悪の場合として
単純にマイナスイメージでしか嫌悪の理由を持ちえていないか

しかし重要なのは
依存という単語、それ自体に悪は全くなくて
単に言葉を使う人の意識の持ち方や
経験などに基づいた思考の持ち方により
悪とされていることが多い

かく言う僕も
依存を嫌悪している側の人間だが
この解釈の元に、改めて考え直してみると
依存は決して完全否定するものではない。

「依」ることで「存」在を証明することならば
「~がいないとダメ」という状態は納得が行く。
しかし、これでは世界がその対象だけで全て完成してしまい
一切の進歩、成長は見込めなくなる。
此れが所謂、一般的に嫌悪とされている依存であろう。
僕はこれを「負の依存」と呼んでいる、無論これは忌避すべきである。

では、「正の依存」とは何なのか。
建設的依存、健全な依存とでも言い換えればいいのか。
一つ仮定を挙げて話すのなら
負の依存に陥る者の多くの共通項として
『いずれかが確立した自己の意識、思考を持たない』
ということが挙げられる。
自分の考えがわからないから、結論や選択といった面倒なことを全て相手に任せる。
任された方はそれを一つ一つ下していけば、自ずと自分だけの世界というものは構築される。
これを負の依存の発生条件とするならば
正の依存を起こすには、その逆を取ればいい。
つまり、双方が確立した自己意識を持っていること。

もちろん、この条件の下に出てくる質問は
この状態では依存は成立しないのではないか ということであろうが
特定の相手と関係を持つことで
それまで抱えていた自己の認識、想像、理想の範疇を
大きく超えることが可能だとしたら

無論、確立した自己を持っているならば
取るべき選択は、さらに上を目指すこと。
ならば、導かれる行動は

「依」ることにより、自己の想像を超える自己の「存」在の可能性を叩き出す。
此れが僕の考える「正の依存」である。

一般的なイメージの依存とはかけ離れ
同義語ともいえる共依存とも違う
言い換えるならば、そう、これが共存ということ。

共に存在していくということは、必然的に相手を認識して意識に加えることが必要条件だ。
それは言い換えれば、相手の存在があってこその自分の存在だということであるし
その逆も言える。
つまりは、それを依存とも言えることができる。

依存という単語に、踊らされている人が多すぎる気がする。
自らのイメージだけで単純嫌悪するのではなく
言葉の意味、行動の方法、解釈の方法から
改めて考えて、その上でどういう依存が嫌いなのか、怖いのかを
説明できる人は、きっと少ないのだろう。

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