恐怖を認めて進む

最近気づいたのだが、私が永く昔から此処に思考を落としているのは
この「えも言われぬ感情をなんとか表現したい」という
いわゆる「言語化」のためではないかと思った。

恐怖を持つことが悪いことではない。理由を言語化することができれば、如何様にもできる。
そのまま恐怖として扱って、嫌なことから逃げる手段にもなれば、振り回して正当防衛の手段にもなる。
そうなるとそれは恐怖ではなく、畏怖や敬意とまで言える。

本当に恐ろしいのはその理由を理解していない、言語化できない恐怖だ。
一度持ってしまうと意思に反して無限に肥大していく。
それに囚われて動けなくなる。或いは動いているつもりでも足踏みしているだけになる。
それが怖いのは、怖い理由がわからないという得体の知れなさなのだろう。

人によっては、「怖い理由がわからない」ということすら言い出せない稚拙な者もいる。

だから「救いを求めるのにも言語化は必要」って言って〆ようとしたのだけど
そういう人のために宗教があって、新興宗教はなくならないんだなとなったので終わり。

私は思っている以上にまだまだ、世の中は何も考えず生きている人間ばかりらしい。
自分の説明もできない自分なんか消えてしまえ

蝙蝠橋を夜のパトロール

少しオブラートにした記事を投稿する場所としてnoteを使っていたが、
調べたところシャドウバンされていることがわかった。

どうもまだ尖っているらしい、お呼びでないらしいので、noteでの投稿はやめにすることにする。


僕が助けたい人は勝手に離れていく
僕を助けてくれた人に恩返しはしたいが、その前に離れていく
どうすればいいとずっと悩んでいたが
他人を助けるのに見返りを求める時点で本気ではないのならば
私もそれにあやかって、好きにすれば良いと最近気づいた


無事オンラインゲームのコミュニティから離脱はできた。
今後どうするのかと聞かれたが、先の事はわからないし、
たかがゲームに「引退」なんて言葉を使うのは可笑しいと思っているので
ぼかしておいた。下手に騒がせないところが私なりの優しさである。
ただアンインストールして2度と起動しなくなるだけ。

人間関係で救われた試しが少ないのと、これから新しく深いコミュニティを増やす必要性を感じない。
僕が求めるものを返してくれない相手に心血を注ぐ必要はない。
縁が切れたことを後悔するくらいに大きくなる必要がある。
邪魔をしないで欲しい。