恐怖を認めて進む

最近気づいたのだが、私が永く昔から此処に思考を落としているのは
この「えも言われぬ感情をなんとか表現したい」という
いわゆる「言語化」のためではないかと思った。

恐怖を持つことが悪いことではない。理由を言語化することができれば、如何様にもできる。
そのまま恐怖として扱って、嫌なことから逃げる手段にもなれば、振り回して正当防衛の手段にもなる。
そうなるとそれは恐怖ではなく、畏怖や敬意とまで言える。

本当に恐ろしいのはその理由を理解していない、言語化できない恐怖だ。
一度持ってしまうと意思に反して無限に肥大していく。
それに囚われて動けなくなる。或いは動いているつもりでも足踏みしているだけになる。
それが怖いのは、怖い理由がわからないという得体の知れなさなのだろう。

人によっては、「怖い理由がわからない」ということすら言い出せない稚拙な者もいる。

だから「救いを求めるのにも言語化は必要」って言って〆ようとしたのだけど
そういう人のために宗教があって、新興宗教はなくならないんだなとなったので終わり。

私は思っている以上にまだまだ、世の中は何も考えず生きている人間ばかりらしい。
自分の説明もできない自分なんか消えてしまえ

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